Healing Fiction ― 癒しを求める世界の傷ついた心

2025年10月31日

住友商事グローバルリサーチ(株)代表取締役社長
横濱 雅彦

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この頃、欧州、特に英国で日本の小説が静かなブームになっているという記事をよく目にします。

 

村上春樹に代表される、すでに世界でも有名な作家に加え、柚木麻子の『BUTTER』や市川沙央の『ハンチバック』など、新しい作家の作品が次々と翻訳され、「Healing Fiction(癒しの文学)」という新しいジャンルまで登場しています。これまで世界で人気を集めてきた日本発のコンテンツといえば、アニメや漫画、そして映画などが主役でしたが、文学作品を通じて、日本の「文字文化」そのものが広がりつつあるようです。

 

「Healing Fiction」というジャンル名からは、この潮流の背景に「癒し」を求める世界の読者の潜在的な欲求があることが感じ取れます。冷戦終結後の約30年間、世界は自由貿易とグローバリゼーションの波に乗り、物質的繁栄を享受してきました。しかし近年、世界秩序が大きく変質しています。自国第一主義の台頭、経済の武器化、AIや監視技術の拡散、気候変動による災害の激甚化。さらに、ウクライナや中東での戦争、広がる経済格差などにより、社会は加速を続ける一方で、人々の心は追いつかず、疲弊し、孤立を深めているように感じます。「Healing Fiction」が支持されるのは、こうした不安定な時代の反動として、静けさや優しさ、穏やかな日常への回帰を人々が本能的に求めているからかもしれません。

 

派手なストーリー展開や勧善懲悪物語ではなく、何気ない日常に潜む孤独や共感、他者へのまなざしを丁寧に描くこと。登場人物は声を荒げず、失敗したり、迷ったりしながらも誰かを思いやり、善悪の境界は曖昧なまま、解釈を読者に委ねる。そして読み終えたあと、それぞれに心が少しだけ豊かになることを感じる。そんな文学が、心が疲弊した世界の読者を癒し、惹きつけているように思えます。

 

話題になっている作品は、まだ1冊しか読んでいませんが、この「Healing Fiction」の作品には「書店」や「図書館」、「カフェ」、「猫」などのモチーフ登場するものが多いようです。読者が求めているものは、単に物語だけではなく、そこから感じられる「安心できる居場所」そのものかもしれません。その延長線上には、これらの作品が生み出される「日本」への憧れも醸成されつつあるように感じます。

 

小説で感じた「癒し」の世界を、現実の日本で体験したいという気持ちから、訪日客が観光名所だけではなく、東京の街角、地方の商店街、書店や喫茶店の中で過ごす「時間」を求め、そこでまた丁寧な対応や、細やかな美意識などに「あくせくした日常とは違う、心地よさ」をポジティブに受け止めているのだとすれば、これもひとつの日本のソフトパワー、すなわち、人を惹きつける磁力であり、経済の戦略的不可欠性や、製品や技術の品質に勝るとも劣らない、日本の強みとして大事にすべきものだろうと思います。

 

「読書の秋」という言葉も、最近はあまり聞かれなくなりました。電子書籍やオーディオブックの普及、そして動画メディアへのシフトもあって、町の書店は減少を続けています。タイムパフォーマンスを優先する社会の中で、「ゆっくりページをめくる時間」は非効率的、あるいは贅沢とみなされがちです。しかし、世界で癒しを求めるニーズが拡大しているのは、ほかでもなく「時間」や「プレッシャー」に追われる日常の疲弊からの休息、再充電を求めているからではないでしょうか。一見非効率に思える「ゆっくり反芻(はんすう)しながらページをめくる時間」をこれからも大切にしていきたいと思います。

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