ウラジオストク/ロシア ~アジア太平洋のゲートウェイを目指す極東ウラジオストク~

2018年12月12日

CIS住友商事会社 ウラジオストク支店
江畑 博文

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極東ゲートウェイの象徴でもある「ルースキー島連絡橋」(筆者撮影)
極東ゲートウェイの象徴でもある「ルースキー島連絡橋」(筆者撮影)

 日本から一番近いヨーロッパと呼ばれて久しい極東の港町、ウラジオストクから近況をお届けします。ウラジオストクという名称はロシア語で"ウラジ=征服せよ+ボストーク=東を"を意味し、閉ざされた軍港として発展してきました。この土地(沿海地方)がロシアに編入されたのは新しく、1860年に英仏と清とのアロー戦争後の講和を仲介した代償として帝政ロシアと清が締結した北京条約以降です。清朝時代のウラジオストクの呼び名は、海参崴(Haishenwai; 「なまこ湾」を意味するといわれる)で、わびしい漁村でした。"なまこ"は今でも当地の名産で養殖事業も行われています。

 

 日本との関係も古く、さかのぼれば平安時代、高句麗が滅んだ後のこの地に渤海(ぼっかい)という国が興り藤原氏による政権との間で使節団の交流が盛んに行われました。193年の間に34回の使節団が日本にやってきています。平安貴族の目当ては渤海使節団が献上する"毛皮類"だったようです。渤海使節団の出発地は現在の北朝鮮国境に近いポシェット港で、現在この港は日本向け石炭の積み出し港として重要な役割を担っています。実に1,200年前から日本海を挟んだ交流が続いており、ここに歴史の深みを感じます。

 

 近代に入っても大正時代のシベリア出兵までは多くの日本人がウラジオストクで商業活動に従事していました。その数、約3,000人。現在の在留邦人の約30倍もの日本人がここで暮らしていました。

 そんな日本とも馴染み(なじみ)が深いウラジオストクは現在、変貌を遂げつつあり日露双方から大変注目されています。

 

デジタルITの拠点「極東連邦大学」の正面玄関の窓から「ルースキー島連絡橋」を望む(筆者撮影)
デジタルITの拠点「極東連邦大学」の正面玄関の窓から「ルースキー島連絡橋」を望む(筆者撮影)

 2012年にAPEC国際会議が開催されるに当たり、主要インフラが整備されました。空港、道路、国際会議場・学園都市につながるつり橋などなど。それに2015年から毎年9月に開催されている東方経済フォーラムにプーチン大統領が出席するのを受けて、日本を始め各国首脳が大挙してウラジオストクを訪問します。街全体が国際色豊かに変貌する時期です。

 

 ロシアにおけるウラジオストクの位置付けは、昔も今も物流の拠点であるということでしょうか。シベリア鉄道の終点であり、海上貨物輸送の窓口でもあります。"ポルト・フランコ(自由港)"という情緒ある呼び名の特例制度も導入され、内外企業の投資誘致に余念がありません。電子ビザも普及し、ロシア外務省のサイトから無料でビザの取得が可能になりました。若手起業家によるスタートアップ企業の活動も盛んで、デジタル分野の"アジアの窓"を目指しています。

 

貨物バースから「金角橋」と市街を望む(筆者撮影)
貨物バースから「金角橋」と市街を望む(筆者撮影)

 ウラジオストク港に司令部を置くロシア太平洋艦隊と海上自衛隊の交流も毎年続いており、寄港した自衛隊の護衛艦、練習艦を見ていると、恐"ろしや"日本海海戦の感情も今や昔、新生ウラジオストクを感じます。また、若者の間では日本のサブカルチャーが大変な人気です。

 

 ロシアに数ある都市の中でウラジオストクはスマートシティ化に向けたモデル都市に指定されており、日本企業もこれに協力、参画していきます。国際都市、アジア太平洋に開かれたゲートウェイを目指し走り出した活気あふれる当地に、ぜひとも足をお運び下さい。

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