総選挙後のタイ政治経済にかかる展望

2026年02月16日

住友商事グローバルリサーチ 国際部
土田 慧

概要
 2月8日に実施されたタイの総選挙では、事前予想に反してアヌーティン首相率いるタイの誇り党が最多議席を獲得した。過去に憲法裁判所より解党・解職命令を下されたリベラル系の政党と異なり保守系政党とのこともあり、仮に同党が政権を樹立した場合は、過去に比べて政治的安定性が改善すると期待できる。一方、経済政策の面ではバラマキ的な景気刺激策が財政状況を一段と悪化させ、それが実体経済の下押し要因とならないか注意が必要である。
 足元では、これまでの産業高度化策も奏功しデータセンターやプリント基板などの高付加価値産業への海外投資流入が急増している。新政権の下でこれら産業への投資呼び込みを継続し、高成長に結び付けられるか注目が集まる。

 

1.総選挙結果の読み解き
 タイでは、日本の衆議院選挙と同日の2月8日に、下院総選挙が実施された。今回の選挙では下院の計500議席が投票対象となっており、400議席は小選挙区制、残りの100議席は比例代表制により選出された。選挙前には、保守系政党であり地方に支持基盤を持つ「タイの誇り党」(党首はアヌーティン首相)の他、過去に不敬罪の廃止等を求めた急進政党「前進党」の後継政党として、都市部の若者・リベラル層の支持が厚い「国民党」(党首はナタポン氏)、及び地方の低所得者層からの支持が厚いタクシン派の「タイ貢献党」(党首はチュラパン氏)の3党が主に議席を獲得することが予想された。1月16~28日に実施されたスアン・ドゥシット大学の世論調査では、支持率順に国民党・タイ貢献党・タイの誇り党との順位が予想されたが、結果的にはタイの誇り党が193議席(議席全体の約4割)、国民党が118議席(2割強)、タイ貢献党が74議席(2割弱)と、タイの誇り党の議席獲得数が事前予想を大きく上回った(いずれもThai PBS(2月13日時点)、開票率は94%)。
 タイの誇り党の勝因としては、主に①カンボジアとの国境紛争を契機としたナショナリズムの高まり、②実務家を揃えた内閣に対する信頼感が挙げられる。①に関し、2025年5月以降は両国との間で戦闘が勃発し停戦するという流れが続いており、2025年12月末に両国は戦闘停止に合意している。2月13日時点では本格的な戦闘再開の兆候は確認できないが、他方でタイ国民にとりカンボジアとの国境紛争は過去よりナショナリズムを刺激するファクターであり、その点で親軍かつカンボジアに対して強硬姿勢を示したタイの誇り党及びアヌーティン首相に支持が集まった。②に関し、シーハサック外相やスパジー商務相など、経験豊富な実務家を新閣僚候補としたことで、国民に安定した政権運営が期待された。

 

2.今後の政治見通し
 今後の政治情勢に関し、過去3年間と比べて政治的安定性が増すと予想される。2023年5月の総選挙にて国民党の前進である前進党が圧勝し最大野党となった際には、王室への中傷を禁じる不敬罪の廃止を選挙公約としたことが国家転覆に該当するとの理由により、2024年8月に憲法裁判所は同党への解党命令を下したほか、党首のピター氏に10年間の政治活動禁止を命じた。また、2024年8月にタイ貢献党のセター氏が首相を務めた際には、過去に禁固刑を受けた閣僚(当時)を任命したことが倫理規定に反するとの理由で、同じく憲法裁判所がセター氏の首相解職・内閣総辞職命令を下している。このように、過去より憲法裁判所はリベラル系政党に対して、彼らの政治的影響力を抑えるような判決・命令を下してきた。
 他方でタイの誇り党は保守系政党であることも踏まえ、憲法裁判所による首相解任判決等が下ることは考えにくく、政治的安定性が改善するであろう。なお、タイの誇り党単独では下院の議席過半数を獲得することが困難であり、同じく保守系政党であるクラー・タム党(58議席獲得見込み)や、タイ貢献党等との連立が想定される。この場合、連立政権の保有議席は320議席超(議席全体の6割)まで達するが、これにより予算や法案の議会承認が円滑になるなど、政策の予見性が向上することも期待できる。
 なお、本選挙と同日に、現行憲法の改正是非を問う国民投票(多数決で是非を決定)も実施された。賛成票が全体の60.0%と過半数を上回る(Thai PBS(2月13日時点))。これを踏まえ、今後新議会の下で憲法改正に向けた議論が進められる一方で、憲法を改正するためには、今後更に2回の国民投票を実施する必要がある他、上下院の合同議会にて憲法改正案を審議する必要がある。他方で上院(計200議席)に関しては国軍に議員の任命権があるなど国軍の影響力が強く、下院についてもタイの誇り党をはじめとした保守系政党は抜本的な憲法改正を望んでおらず、改正に向けた議論は遅々として進まないであろう。

 

3.今後の経済政策見通しと財政面のリスク
 タイの誇り党を中心とした連立政権下では、バラマキ的な景気刺激策実施が予想される。昨年にはアヌーティン政権の下で、飲食品など日常品の購入額半額を補助する「コン・ラ・クルン・プラス(半分こプラス)」が実施された。同党が総選挙後に掲げた経済振興策「10プラス」の中では、コン・ラ・クルン・プラスの第2弾の実施が掲げられている。このような政策実施が景気の下支え要因になり得る。
 他方で、バラマキ的な経済政策を実施することで財政状況が悪化することには留意が必要である。同国の財政収支は、2024年にタイ貢献党政権で実施されたデジタル・ウォレットプロジェクトによる歳出増加もあり、悪化が続く。ASEAN+3 Macroeconomic Research Office(以下「AMRO」)によると、2025年度(2024年10月~2025年9月)の財政赤字GDP比は4.5%(推計値)と、2024年度の4.0%より拡大した。実質GDP成長率が直近では減速していることもあり、公的債務GDP比は2025年9月時点で65.1%と、上昇している。他方で政府の定める公的債務GDP比の法定上限は70%となっているため、政府としては歳出を更に増加させる余地が限られる。
 今後仮に公的債務GDP比が70%付近まで到達する場合や、政府が公的債務GDP比にかかる法定上限自体を引き上げ、財政赤字幅を拡大させた場合、市場の財政に対する信認低下を通じて長期国債の利回りが高騰し、ひいては自動車・住宅向けローン金利など、銀行・ノンバンクによる民間セクター向けの貸出金利の上昇要因になりかねないことには注意が必要である。



4.タイの誇り党は投資産業高度化のための投資呼び込みを狙う
 足元の経済状況に関しては、実質GDP成長率が政治的な混乱を踏まえた政府支出・公共投資の急減を受けて2025年第3四半期に大幅に減速したものの、その他の主要マクロ経済指標に関しては特段の懸念点は見られない。例えばインフレ率に関しては、総合インフレ率はマイナス圏にて推移するほか、価格変動幅の大きい食料品・エネルギー品目を除いたコアインフレ率も1%未満にて推移している。外貨準備高は2026年1月時点で2,460億ドルであり、輸入カバー比は8か月超(3か月以上が適正水準)・短期対外債務比率は2.87倍(1.00倍以上が適正水準)と十分な水準を維持している。銀行の不良債権比率も2025年12月時点で2.8%と安定推移している。
 なお中長期的な経済見通しを考える上で特筆すべき点として、足元で海外からのEVやデータセンター、プリント基板を含むエレクトロニクスなど高付加価値産業向け投資が急拡大していることが挙げられる。タイ投資委員会によると、2025年の海外からの直接投資申請額は1兆3,599億バーツと、昨年比で+66%と急伸した。中でも、データセンターを含む「デジタル産業」分野への投資額が全体の約5割を占め、これに次いでプリント基板を含む「電子機器・電子部品」向けの投資が全体の2割を占める。データセンターに関しては、タイ国内のみならずASEAN諸国のAI・クラウドサービス需要増加を取り込む形でタイでの建設が進む。特に後述の東部経済回廊では、海外と接続されている複数の国際海底ケーブルが利用できるなど通信インフラが整備されていることや、電力・土地・水道のコストがマレーシア・シンガポール等と比べ低いことも優位性として挙げられている。



 地域別では、チョンブリ・ラヨーン・チャチュンサの東部3県への投資額が全体の約7割を占める。タイ政府は2015年に、産業高度化の方針を示した国家戦略「タイランド4.0」を公表したほか、自動車産業が集積する東部3県を対象地域とし、インフラ整備・工場/研究機関・工業団地の招致を通じて高付加価値産業呼び込みを狙う「東部経済回廊(EEC)」構想を公表している。これら政策も奏功し、3県で高度産業の集積が進んでいることが読み取れる。


 タイでは、長年に亘りクーデターや政権交代に起因する政治的不安定性が国内外からの民間投資呼び込みを阻む要因となってきた。特に過去3年間では、2023年5月の総選挙での前進党の躍進を踏まえ、それまで対立していた貢献党及び親軍政党が連立政権を組んだが、その後はタイ貢献党のセター・ペートンタン元首相が解職処分を受けた後に、タイの誇り党が国民党と協力するなど、政局が目まぐるしく変化してきた。企業側も政治的不確実性を懸念し、民間投資が停滞してきた。今回の総選挙によりタイの誇り党が政権を担うことで政治的安定性が改善する場合、国内外企業による投資が活発化するであろう。
 またタイの誇り党が掲げる経済振興策「10プラス」には、短期的な景気刺激策のみならず、中長期的な高成長実現に向けた政策も含まれている。例えば、EVやデータセンター、プリント基板を含む6つのセクターが投資優先分野と定められており、民間投資の呼び込みを狙う。その際に、タイ投資委員会が投資の実行に必要な行政手続きを迅速化することを目的とし、2025年10月に公表した「タイランド・ファストパス」制度を活用するとしている。タイの誇り党としては、景気刺激策による消費喚起のみならず企業投資呼び込みによる経済活性化も背景に、自党の支持率を向上させることも狙う。本選挙を契機に、中所得国の罠からの脱却に向けた経済政策を今後とも実施し続けられるか、注目が集まる。

 

<参考文献>
ThaiPBSホームページ(2026/2/13にURLにアクセス)
AMRO Annual Consultation Report Thailand – 2025.(2025/12/2)

以上

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