動かないドル円相場が動き出すリスク

2020年02月28日

住友商事グローバルリサーチ 経済部
鈴木 将之

(2020年2月19日執筆)

概要

 米イラン対立の激化という地政学リスクが世界を覆った2020年の年初から、1か月も経たないうちに、世界経済を取り巻く環境は大きく変わってしまった。新型コロナウイルス感染拡大で、中国など2020年第1四半期の世界経済は減速する見通しだが、それでもドル円相場は動かなかった。しかも、先行きについても、当面横ばい圏で推移するとみられる。むしろリスクは、動かないドル円相場が動き始めたときに、市場が対応しきれないことである。それを引き起こすきっかけが何になるのかが注目される。

 

 

1. 様変わりした世界

 米イラン対立の激化という地政学リスクが世界を覆った2020年の年初から、1か月も経たないうちに、世界経済を取り巻く環境は大きく変わってしまった。年初に米イラン対立が激化し、一触即発の事態への懸念から、ドル円相場は円高・ドル安方向に進んだ。しかし、1月中旬には、米イラン双方からこれ以上の悪化は望まないとして、事態は鎮静化に向かった。また、これまでの懸案だった米中貿易協議についても、第1段階合意が成立したこともあって、市場では過度な警戒感が後退した。

 

 警戒感が薄れた市場では、2019年から始まった米欧の金融緩和効果によって、経済が緩やかに成長しつづけるというシナリオに回帰した。短期的には、2020年秋の米大統領選が材料視され、中長期的には、国際決済銀行(BIS)報告書のタイトルが「Green Swan」とされたことあって、環境問題が市場の関心を集めていた。

 

 1月下旬に世界を取り巻く状況は一変した。1月23日に武漢市の公共交通機関が閉鎖されるなど、新型コロナウイルスによる肺炎(COVID-19)への感染拡大によって、世界ではリスク回避的な姿勢が強まった。円売り・ドル買いのポジションにあった投資家がそれを巻き戻すことで、リスク回避的な円買い・ドル売りが進み、ドル円相場は円高・ドル安に振れた。

 

 しかし、円高・ドル安は一時的なものだった。図表①のように、ドル円相場は1月末に1ドル=109円04銭と、2019年末(109円15銭)から大きく変化していない。世界の状況が様変わりしても、ドル円相場は特段、影響を受けていないようにみえる。2020年もドル円相場は動かないのかが、注目されつつある。

 

 

2. 高まる景気減速リスク

 まず、実体経済の状況を確認しておく。経済成長率(実質GDP成長率)をみると、2019年末まで、主要国・地域の景気の方向感は大きく異なっていた。

 

 図表②のように、2019年第4四半期(以下、Q4)には、日本は前期比年率▲6.3%と5四半期ぶりのマイナス成長となった。消費税率引き上げの駆け込み需要後の反動減や台風、暖冬、米中貿易戦争の影響などから、内需総崩れの状態となった。マイナス成長は想定内であったものの、マイナス幅の大きさは想定を上回るものであった。

 

 また、米国が+2.1%と潜在成長率並みの底堅い成長であり、中国は+6.1%と前期並みの成長ペースを保った一方で、ユーロ圏は+0.2%と弱含んだ。底堅い米国経済に対して、鈍化傾向が目立つユーロ圏や中国経済のように、方向感が大きく異なっていたのが2019年末までの実体経済だった。そのため、1月中旬までは、2020年Q1に成長ペースがどこまで加速できるかが、各国共通の注目点だった。

 

図表① 為替レート出所:日本銀行・日本経済新聞社より住友商事グローバルリサーチ(SCGR)作成)

 

図表② 実質GDP成長率(出所:BEA、Eurostat、内閣府、中国国家統計局よりSCGR作成)

 

 しかし、COVID-19への感染拡大によって、そうした見方は大きく変化してしまった。感染拡大を抑えるために、中国では春節休暇が延長され、企業や工場の操業停止が長引いた。一部は操業を再開しているものの、フル稼働にはほど遠い状況が続いている。それは、サプライチェーンを通じて、世界の各国・地域に悪影響を及ぼすことになる。

 

 実際、図表③のように、各国・地域の財・サービス輸出額における対中輸出のシェアをみると、東アジア(台湾、韓国、香港)の対中輸出依存度が高いことがわかる。もちろん、日本も例外ではない。マレーシア、タイなどのASEAN諸国に加えて、チリやペルー、ブラジルなどの南米諸国でも、対中輸出のシェアが高い。その他では、サウジアラビアやカザフスタン、米国やドイツなど、世界の多くの国で中国輸出が存在感を高くなっていることがわかる。このように、中国は、サプライチェーンの中に組み込まれていたり、資源エネルギーや食糧などの主要な輸出先であったりするため、中国経済の減速に影響を受けない国・地域はない。

 

 また、各国・地域のサービスの輸出としての観光産業への影響も大きい。図表④のように、中国人の海外旅行消費額は急増してきた。中国では、COVID-19への感染拡大によって団体旅行が禁止になるなど、各国・地域への影響が懸念されている。しかも、工場の操業停止などサプライチェーンへの影響と異なるのは、旅行客の減少が目に見える点だ。観光産業に従事する企業や地域のマインド悪化につながる恐れもある。中国人の観光地として人気の高いタイでは、その悪影響が懸念され、経済成長率見通しは下方修正された。日本でも、大阪など西日本では、訪日観光客が顕著に減少している。

 

図表③ 各国・地域の対中輸出のシェア(出所:OECDよりSCGR作成) (注)2015年値

 

図表④ 中国人の海外旅行消費額(出所:中国国家外貨管理局よりSCGR作成)(注)旅行収支支払額

 

 一方で、図表⑤のように、財・サービスの輸入も重要だ。対中輸入シェアが大きい国・地域をみると、やはりアジアが多い。また、ペルーやメキシコ、コロンビアなど中南米諸国も中国からの輸入が多い傾向がみられる。COVID-19の影響で、自動車産業では、中国からの部品輸入が滞り、生産を一時休止せざるを得ないという事態が日本や韓国で発生している。

 

 また、図表⑥のように、対中の貿易・サービス収支では、米国やメキシコ、インドなどにおいて対中貿易赤字額が大きい。一方で、台湾や韓国、ドイツなどは対中貿易黒字額が大きかった。このため、輸出入の構造の相違によって、中国経済の減速による影響は異なったものになるだろう。

 

図表⑤ 各国・地域の対中輸入のシェア(出所:OECDよりSCGR作成) (注)2015年値

 

図表⑥ 各国・地域の貿易・サービス収支(出所:OECDよりSCGR作成) (注)2015年値 上位10位、下位10位。

 

 いずれにせよ、2020年Q1の世界経済の成長率が鈍化することは必至だ。足もとまでの状況を踏まえると、V字回復は難しいだろう。世界各国・地域の日常生活や生産活動が回復するにつれて、世界経済は緩やかに成長ペースを加速させることが期待される。

 

 各国・地域の経済見通しが下方修正されるなかで、金融当局はさらに緩和的な金融政策に舵を切っている。中国でも春節休暇明けに1.2兆元の資金供給を実施したり、中期貸出ファシリティー(MLF)金利を引き下げたりすることで、中小企業の資金繰り対策等、流動性の確保に努めている。また、増値税(付加価値税)や個人所得税などの減税策も検討されている。各国・地域の景気減速感が強まるにつれて、経済対策が打たれるとみられるため、年後半にかけて世界経済の成長ペースが加速していくだろう。

 

 

3. 横ばいの為替相場

 次に、ドル円相場の動きを把握するために、経済のファンダメンタルズに注目して足もとまでの動向について要因分解を行った。

 

 図表⑦のように、短期的な要因として日米の実質金利差、中期的な金融政策の要因として日米マネタリーベース比、長期的な日米の物価上昇率の差である購買力平価など、経済のファンダメンタルズ要因からみると、円安・ドル高圧力がかかる状態だった。

 

 2019年9月の米短期金融市場の混乱もあって、米連邦準備理事会(FRB)は短期国債の買い入れを増額した。FRBは技術的な調整という立場をとった一方で、市場は量的緩和の再開ととらえる向きもあった。形はともあれ、FRBのバランスシートが拡大したことは事実であり、それが円安・ドル高圧力になったとみられる。

 

 また、日本の経常収支黒字は継続しており、これは円高・ドル安圧力になりうる。しかし、貿易収支に限ってみると、その黒字幅は縮小しており、円買いの実需も出にくい状況になりつつあることにも注意が必要だろう。購買力平価要因に関して、日本はデフレではない状況になっているものの、米国に比べて物価上昇ペースは鈍い。ただし、消費税率引き上げなどの影響もあって、前年同期に比べれば上昇ペースが加速しており、足元のドル円相場に対しては円安・ドル高方向に働いていた。

 

図表⑦ ドル円レートの要因分解(出所:財務省、総務省、日本銀行、BLS、FRBよりSCGR作成)

(注)為替レート関数の定式化について、内閣府『経済財政白書(平成24年度)』の「付注1-8為替レート関数の推計について」を参考に、RのMSwMパッケージを利用してMarkov Switchingモデルで推計した。ただし、ここでは説明変数として、①購買力平価(日米の生産者価格に基づく購買力平価)、②マネタリーベース(日米のマネタリーベース比)、③リスクプレミアム(日本の累積経常収支から累積直接投資・外貨準備高を引いたものの名目GDP比のHPフィルターのトレンドを除いたもの)、④日米実質金利差(日米の政策金利を消費者物価指数で実質化したものの差)を利用している。また、パラメータについて2つのレジームを想定し、日米実質金利差が統計的に有意ではなく、マネタリーベース比のパラメータが統計的に有意で大きい方を量(マネタリーベース)レジームとし、日米実質金利差が統計的に有意かつマネタリーベース比のパラメータが統計的に有意で小さい方を金利レジームと解釈した。なお、図中のシャドー(影)部分は「量(マネタリーベース)」のレジームを表す。

 

 同じように、ユーロドル相場についても、経済のファンダメンタルズの視点から要因分解を行った。ユーロ圏景気は米国に比べて低空飛行であり、ユーロ買い・ドル売り圧力になりにくい状況にあった。2019年9月に3回の利下げを行ったFRBに対して、欧州中央銀行(ECB)も利下げを実施しており、米欧はそろって金融緩和方向に舵を切った。ECBは国債買い入れを再開した一方で、FRBも短期国債を買い入れるなど、金融政策の面では、ユーロドル相場を動かす材料にはなりにくい。

 

 それに対して、長期的な視点からみた購買力平価要因は、ユーロ安・ドル高要因になりうる。ユーロ圏の物価上昇率が米国よりも低いためだ。足元にかけても、米国の物価上昇率は加速しており、そのような傾向が当面続くとみられる。また、ユーロ圏の経常収支が黒字に転じており、ユーロ買い・ドル売りの実需面からリスクプレミアムとして、ユーロ高・ドル安圧力がかかっていた。

 

 しかし、足元にかけて、2019年Q4の実質GDP成長率が前期比+0.0%となったドイツ、マイナス成長になったフランスやイタリアなど、ユーロ圏景気が弱含んでいることが、ユーロ売り・ドル買いの材料になっている。

 

 また、ユーロ圏については、英国のEU離脱(Brexit)や米欧貿易協定など先行き不透明感が残っていることにも注意が必要だ。英国は1月末にようやくEUから離脱したものの、貿易協定などを含めた将来関係をの交渉が課題として残っている。しかも、英国は2020年末までの移行期間を延長しない方針を示している。EUと英国の主張がかけ離れていることもあり、将来関係の交渉は困難な情勢だ。一方、米欧貿易協定については本格的な協議も行われていない。米国が政治の季節に入ることもあり、協議は先送りされるものの、大統領選が終了すれば再開される可能性がある。

(注)図表⑧の注を参照。ここでは説明変数として、①欧米実質金利差(ユーロ圏・米国の消費者物価指数で実質化した金利の差)、②リスクプレミアム(ユーロ圏の累積経常収支から累積直接投資・外貨準備高を引いたものの名目GDP比のHPフィルターのトレンドを除いたもの)、③マネタリーベース(ユーロ圏・米国のマネタリーベース比)、④購買力平価(ユーロ圏・米国の生産者物価に基づく)、⑤投機筋(IMM通貨先物、非商業部門の取り組み)を利用している。また、パラメータについて2つのレジームを想定し、リスクプレミアム、購買力平価要因が統計的に有意なレジーム(図中シャドー部分)と、リスクプレミアム、マネタリーベース、購買力平価、投機筋の動向が統計的に有意なレジームに分かれた。

 

 このように、先行き不透明感が為替相場で影響力を強めているのかもしれない。図表⑨のように、動かないドル円相場の背景には、経済ファンダメンタルズ以外の要因、例えば投機筋の短期的な動きや、政策不確実性指数が表す先行きの不透明感などがあり、円買い・ドル安を促しているようだ。米中貿易戦争や米大統領選に、COVID-19というリスクが加わって、ますます経済のファンダメンタルズから乖離した動きが続く可能性も否定できない。

 

 こうしたことを踏まえると、先行きの為替レートについてドル円は1ドル=110円前後、ユーロドルは1ユーロ=1.12ドル前後と当面横ばい圏の動きが続きそうだ。

 

 

4. 動かないドル円相場が動き出すリスク

 動くことを忘れてしまったかのようなドル円相場は、当面動き出しそうもない。米イランの対立激化や米中貿易戦争、COVID-19などのリスク回避姿勢の強まりから円買い・ドル売りがもっと進んでもおかしくない状況にもかかわらず、ドル円相場はならしてみれば安定してきた。

 

 むしろリスクは、動かないドル円相場が動き始めたときではないだろうか。市場はここ2年以上、金融緩和とともに、ドル円相場が動かないことが前提になりつつあるようだ。仮に動きはじめたとき、緩和慣れした市場、動かないドル円相場に慣れた市場は、その変動にうまく対応できない恐れがある。

 

 金融緩和が実施されている中で、景気は減速しつつあり、次の有効な景気刺激策、すなわち伝統化した非伝統的な金融政策の先を見極められていない。こうした中、FRBやECBは金融政策の見直しを進めている。仮に、現在の枠組みと大きく変わるならば、市場がそれに適応していく必要があるが、それがうまくできないリスクもある。景気刺激を狙い金融緩和余地を広げるため金融政策の枠組みを変更したことをきっかけに、市場が混乱してドル円相場が動き出すリスクについて、頭の体操として想定しておくことも必要だろう。

 

図表⑨ 投機筋の動向と不確実性(出所::図表⑦の出所、CFTC、"Policy Uncertainty in Japan" by Elif C. Arbatli, Steven J. Davis, A. Ito, N. Miake, and I. Saitoより作成 )

 

図表⑩ 為替レートの見通し(出所:図表⑦、⑧の出所を参照)

以上

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