ソ連崩壊から30年 ①

2021年12月24日

住友商事グローバルリサーチ 国際部
アントン ゴロシニコフ

チェルノブイリ原発事故は歴史的転換点

 ソビエト連邦が崩壊してから2021年で30年を迎える。1991年12月8日にロシア、ウクライナとベラルーシ3か国の首脳がソ連消滅を宣言し[*1]、そして12月25日にソ連のゴルバチョフ大統領がテレビ演説で辞任表明した。連邦を構成する各共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソ連は崩壊し、クリスマスの夜、クレムリンのソ連閣僚会議のドーム屋根のポールから槌と鎌の赤いソ連国旗が降ろされ、代わりに白青赤の新生ロシア国旗が掲げられた。1980年代半ばには揺るぎない超大国と思われたソ連だが、なぜわずか数年で崩壊したのか。今でもはっきりした理由が分からないようである。一部の専門家は原油価格の下落と、非効率な計画経済などの理由を挙げている [*2]。当時の原油価格については、サウジアラビアが1985年9月に石油減産に関する合意を撤回し、増産に踏み切った。原油価格は4か月で70%下落し、価格は1バレル当たり10ドルをわずかに上回る水準にまで落ち込んだ。ソ連は原油収入が激減し、経済モデルが崩壊したといわれている。

 もう一つの理由は、ソ連時代末期に各地で起きた民族衝突が挙げられる。最初のケースは、1986年末にカザフスタンの首都(当時)アルマトイで起きた。カザフ人の若者が、共和国の首長にロシア人が任命されたことに失望し、反政府の大規模な抗議デモを実施した。やがて、不穏な状況を鎮めるために政府は軍隊を派遣し、デモ隊を制圧した。また、アゼルバイジャンの都市スムガイトでポグロム(集団的な略奪、虐殺、破壊行為をさすロシア語)が発生し、グルジア(現在のジョージア)の首都トビリシでも暴力的事件が相次いだ。最悪の流血をともなった紛争は、アゼルバイジャンとアルメニアの間に位置するナゴルノ・カラバフで生じた。これはしばしば、「ソ連崩壊の引き金になった主な政治的誘因の一つ」といわれている [*3]。アゼルバイジャンとアルメニアの軍事衝突は現在も続いている。

 

 そして、ソ連崩壊は必然的なものではなく、特定の個人(通常はゴルバチョフとエリツィン)の政策や決定に起因すると主張する説もある。英国の歴史家のアーチー・ブラウン氏は著書『ゴルバチョフ・ファクター[*4]で、「ペレストロイカ(建て直し、刷新)」と「グラスノスチ(情報公開)」といった政策、そして市場改革を進めようとした、ソ連政治の主役であったゴルバチョフ氏(ソ連崩壊当時60才)の責任が重大であると指摘した。ゴルバチョフが故意に共産主義とソ連を破壊しようとしたという、ロシアで広まっている陰謀説もある。西側社会を見たゴルバチョフが、ソ連社会の遅れを感じたことは否めない。そして、最新の世論調査でも4割のロシア人が、ソ連崩壊の主な責任はゴルバチョフにあると思っているようである [*5]

 

 当然、ソ連崩壊の要因は一つではなく、それまでの複数の要因が合わさった結果であると考えられるが、筆者は個人的には、1986 年4 月に発生し世界を震撼させたチェルノブイリ原発事故の影響が大きいと思っている。ゴルバチョフ自身も2006年4月に著した意見書の中で、「20年前の今月、チェルノブイリで起きた原発事故は、私がペレストロイカを実行したこと以上に、おそらくソ連崩壊の真の原因となった」と述べている [*6]。ゴルバチョフはチェルノブイリ原発事故が「歴史的転換点」になったとみており、当時、ソ連の共産党は情報を強く統制していたが、この大規模な事故が起きたことをもはや隠せない状態になっていて、「ソ連のシステムをそれ以上続けることができなくなった」と書いている。具体的には、チェルノブイリ原発事故は国内で大規模な反核運動を引き起こし、政権に対する不信感や反対意見が公に発せられるようになったことで、ソ連に属する共和国の独立を求める大規模な抗議行動の種をまくことにもなった。1986~87年にはバルト三国のひとつであるラトビアで、ダウガフピルス水力発電所の建設計画に対する大規模な抗議運動が発生し、1988年には首都リガで地下鉄建設の計画について市民デモが発生した。同じくバルト三国のリトアニアでも、環境アクティビズムが台頭し、これはのちに1990年のリトアニアのソ連からの独立宣言にも繋がった。その前に1989年8月23日にバルト三国の人々は、「バルトの道」と呼ばれるデモ活動を行い、それぞれの首都を結ぶ約600kmの道を人の手で繋ぐという、人間の鎖を作った[*7]。一般市民の力が結集し、それが雪だるま式に大きくなり、ソ連共産党がそれをコントロールできなくなりソ連崩壊と各共和国の独立へと繋がった。

 

独立を要求する抗議デモ「バルトの道」(出所: Wikipedia Commons)
独立を要求する抗議デモ「バルトの道」(出所: Wikipedia Commons)

 結局、バルト三国は1991年9月にソ連からの独立を達成し、2004年3月には三国そろって北大西洋条約機構(NATO)に加盟、同年5月には欧州連合(EU)にも加盟した。ロシアでは、1991年8月にソ連崩壊と各共和国の独立運動を阻止しようと考えたソ連共産党の強硬派によるクーデター(いわゆる、ソ連8月クーデター)が起きたが、失敗に終わった。その後、ロシアも含めたソ連の12か国(ロシア、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア、ウクライナ、モルドバ、ベラルーシ、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、カザフスタン)が次々とソ連から独立した。

 

ソ連崩壊のきっかけとして、東西ドイツのベルリンの壁の崩壊が言われるが、それだけならソ連は崩壊しなかったはずである。万能と思われたソ連体制が弱体化するきっかけになったチェルノブイリ原発事故。環境問題を意識した市民運動から始まり、政権に対する不信感や鬱憤(うっぷん)・不満が噴出して起こったソ連崩壊は、気候変動や人災が相次いでいる今の時代にも何らかの教訓になるはずである。ソ連時代と同じように、環境問題は依然として人々を強力に結集させ、今日では温暖化対策に、そして大きな災害が発生するたびに、時の権力は、その対応の成否により政権存続の正統性を問われている。

 

以上


[*1] 3首脳会議が、ベラルーシのベロヴェーシの森の旧フルシチョフ別荘で行われたため、「ベロヴェーシ合意」とも言われる。合意文書ではソ連崩壊と独立国家共同体(CIS)創設を宣言し、CIS設立協定では、「国際法の対象と地政学的な現実としてのソ連は既に消滅している」とされ、「欧州共同体(EC)をモデルにした緩やかな共同体(コモンウェルス)であるCISの設立」を宣言した。

[*2] Amazon.co.jp: Collapse of an Empire: Lessons for Modern Russia (English Edition) 電子書籍: Gaidar, Yegor, Antonina W. Bouis: 洋書

[*3] Альтернативы для СССР - Ведомости (vedomosti.ru)

[*4] ゴルバチョフファクター | アーチー・ブラウン, 小泉 直美, 角田 安正 |本 | 通販 | Amazon

[*5] ВЦИОМ. Новости: Михаил Горбачев: роль в истории (wciom.ru)

[*6] VIEW: Turning point at Chernobyl — Mikhail S Gorbachev (gorby.ru)

[*7] 1989年8月23日は、独ソ不可侵条約 50 周年にあたり、1939年同条約でバルト三国のソ連併合が認められた。

記事のご利用について:当記事は、住友商事グローバルリサーチ株式会社(以下、「当社」)が信頼できると判断した情報に基づいて作成しており、作成にあたっては細心の注意を払っておりますが、当社及び住友商事グループは、その情報の正確性、完全性、信頼性、安全性等において、いかなる保証もいたしません。当記事は、情報提供を目的として作成されたものであり、投資その他何らかの行動を勧誘するものではありません。また、当記事は筆者の見解に基づき作成されたものであり、当社及び住友商事グループの統一された見解ではありません。当記事の全部または一部を著作権法で認められる範囲を超えて無断で利用することはご遠慮ください。なお、当社は、予告なしに当記事の変更・削除等を行うことがあります。当サイト内の記事のご利用についての詳細は「サイトのご利用について」をご確認ください。