メキシコ情勢:軍事作戦後の展望

2026年03月23日

住友商事グローバルリサーチ 経済部
小橋 啓

概要
 メキシコでの麻薬カルテルへの軍事作戦は、短期的に混乱をもたらしたものの、現在は落ち着きを取り戻しているように見える。しかし、中長期的には治安の悪化や、経済成長への下押しリスクが潜在的に高まっている可能性も浮上する。

 

1.軍事作戦の概要と直後の混乱
 2026年2月22日、米国からの情報支援(インテリジェンス)を受けたメキシコ軍が、メキシコの最大級の麻薬カルテルである『ハリスコ新世代カルテル(CJNG)』のトップの『ネメシオ・オセゲラ・セルバンテス図1 エルメンチョ手配書(通称エルメンチョ)』を軍事作戦の上、殺害した。最高幹部をピンポイントで排除することで組織の無力化を図るこの手法は、欧米で『キングピン作戦』と呼ばれている。
 この作戦が実行に移された背景には、メキシコの治安政策の変化が挙げられる。ロペスオブラドール前政権時には、「銃弾より抱擁」というスローガンのもと、麻薬カルテルには比較的寛容な方針がとられていた。しかし、近年は犯罪の凶悪化が進み、2024年には市長や選挙候補者を含む30名以上が殺害される事態となった。これを受け、シェインバウム現政権は組織犯罪に対する強硬姿勢へと転換した。米国のトランプ政権が移民や麻薬(フェンタニルなど)の米国への流入阻止に向けメキシコへの圧力を強め、対処しなければドローン攻撃や軍派遣を行うと脅迫していたこと、つまり外圧の影響も大きい。シェインバウム政権は、主権を守る観点からも米軍の直接介入は拒否を続けており、自国だけで麻薬カルテルに対処できるという実績を示す必要もあった。
 メキシコ政府は作戦の成功を宣言したが、直後からカルテルによる激しい報復が開始された。拠点のあるハリスコ州や日系自動車工場が集積するグアナファト州やアグアスカリエンテス州などメキシコ全土で道路封鎖や放火が発生し、深刻な混乱が広がった。サプライチェーンは一時麻痺し、自動車などの製造業は操業停止や従業員の自宅待機を余儀なくされ、多くの海外企業がメキシコへの渡航の停止措置をとるに至った。
その後、1週間ほどで混乱は収まり、製造業などの操業はおおむね正常化している。しかし、水面下で進行する情勢悪化がまだ表面化していないだけの可能性も燻る。特に2026年6月にはサッカーW杯の試合を控えるハリスコ州グアダラハラでは、治安への注目が高まるなかで厳戒態勢が続いている。

 

図2:ハリスコ州(赤)、グアナファト州(黄)、アグアスカリエンテス州(黄)

 

2.キングピン作戦の限界と構造的課題
 軍事作戦自体は成功したとしても、中長期的に見てトップの排除だけでは本質的な解決にはならず、むしろ大きなリスクを招くことが指摘されている。カルテルではトップの排除により中央集権的な支配が崩れ、後継者をめぐる内部抗争の激化や、組織が小規模な武装グループに分断されることは、かえって治安当局による制圧を困難にする。また、今回のようにCJNGという一つのカルテルが弱体化しても、他の麻薬カルテルが入り込み、縄張り争いなどで対立が泥沼化することも想定される。過去の事例では、2006年以降のキングピン作戦の結果1日当たりの殺人件数が25人(2007年)から100人超(2020年)へと急増した歴史がある。現在は、カルテル間の抗争が均衡したことにより、殺人件数自体は減少傾向にあるものの、治安は必ずしも改善したということではない。政治家やジャーナリストなどをターゲットとし、犯罪自体の凶悪化により国民に恐怖心を植え付けるなど犯罪の質の変化がおきている。このような経験から、今回の作戦においても抗争の激化や治安の悪化が懸念されている。
 また、問題の解決を困難にしている要因は、メキシコ国内の事情にとどまらない。メキシコの麻薬の供給側を断っても、米国内の巨大な麻薬市場と強大な犯罪ネットワークが存在すること、また米国が武器や兵器の調達元や資金洗浄の拠点になっており、対策を進めても目に見える成果が得られにくい点が挙げられる。また、トランプ政権は国外の軍事作戦には積極的なものの、米国内への対処は不十分との指摘もある。
 さらに、麻薬組織自体が経済や社会に深く入り込んでいる事実もある。麻薬の取引だけでなく、燃料密輸でも莫大な利益を得ているとされるほか、さまざまな産業に入り込み国境を越えた巨大なビジネス活動を行っているとされる。また、メキシコの政権内、警察内などにも麻薬組織が関与しているとみられることも問題を複雑化している。

 

図2:メキシコの1日当たり殺人件数推移、表1:近年の主なキングピン作戦

 

3.経済への影響
 今回の作戦の経済への影響は短期的には治まりつつあるものの、メキシコ経済の基幹にもなっているニアショアリングや海外直接投資(FDI)など経済への負の影響が懸念される。治安の悪化に伴う製造業の物流ルートへの懸念、保険料や警備コストの上昇がおき、今後の不透明感の高さから、新たにメキシコ進出を検討していた企業が投資判断を遅らせる事態もおきている。
 メキシコでは、FDI自体は近年成長に大きく貢献していた。FDI実績は5年連続で成長を続けており、2025年の実績は408億ドルと過去最高を記録し、政府は2030年に1,000億ドルに倍増を目指しているが、現在の情勢はこの流れを阻害しかねない。
 メキシコ経済の不安要素は治安だけではない。一つは、北米自由貿易協定(USMCA)が2026年7月にも見直しの期限を迎える。延長に合意できれば、16年先の2042年まで米国への無関税の輸出、優先的なアクセスが続くが、合意できなければ現行期限の2036年まで毎年見直しが必要になり、そこでも合意できなければ失効することになり、将来への不透明からニアショアリングの前提が崩れることになる。また、近年メキシコでは最低賃金の引き上げや労働時間短縮など製造業のコストを上昇させる傾向が続いていることや、現政権の司法改革により、司法判断が政治や世論に左右され、企業活動の予見性が低くなることも逆風になりかねない。さらに、米国への配慮から、対中国へは高関税や投資制限を行っているが、これは中国マネーによる経済成長の機会損失というリスクにもなり得る。メキシコの経済全体での不透明感が以前にも増して強まっているとして、IMFも今後の経済成長は緩やかにとどまると予想している。

       図3:メキシコへのFDI推移、図4:実質GDP成長率の見通し

 

4.中南米全体への波及と地政学リスク
 メキシコのカルテル対策と治安悪化は、中南米全体に共通する課題ともいえ、米国の介入強化という新たな局面を迎えている。米国トランプ政権は西半球での米国の覇権を再確立するというドンロー主義を展開し、介入を強化している。2026年3月7日には、中南米の右派諸国を中心としたサミットを開催し、麻薬カルテルの掃討のための軍事協力を行っていく方針を確認した。一方で、左派政権はこれに批判的であり、今回のようにメキシコは情報面でのみ米軍の協力を受入れたものの直接介入は拒否、ブラジルも新植民地主義として批判をしている。それでも、ベネズエラでは実際に軍事介入によりマドゥロ前大統領が拘束され、キューバでもイランの次とトランプ大統領が介入を示唆しており、地域全体での米国の介入圧力が強まっている事実は否めない。
 こうした動きは、メキシコをはじめとする中南米において、米国との結びつきの強化は経済成長のチャンスにもなる一方で、主権の侵害や治安・投資環境の不安定化というリスクは今まで以上に大きくなっている。また、米国主導の脱中国は、近年経済的な関係を強化してきた中国との関係を弱め、中南米の経済成長へ懸念事項となってくる。

 

以上

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