失われた30年に、何を失ったのか

2026年08月12日

住友商事グローバルリサーチ 経済部
本間 隆行

 

 日本経済を語るときに使われる「失われた30年」という言葉が、あまり好きではない。バブル崩壊後の停滞も、金融危機も、デフレも、その後の雇用環境の変化も見てきたし、私自身、この30数年を会社や仕事を変え、試行錯誤を繰り返しながら過ごしてきた。地下鉄テロのような安全神話の崩壊、大手銀行の突然国有化では社会や経済の変質を強く感じた。日経平均株価が3万8,915円という頂をつけたのは1989年の暮れで、この高値を超えたのが2024年2月だったので、高値更新には34年を要したことになる。あの高みを起点に据えれば、確かにその後は「転落」には見える。だが、その30年間を丸ごと「失われた」と言われると、どこか腑に落ちないところもある。

 

 

 もちろん、日本経済が十分に成長しなかったことは事実だろう。実質GDPの伸びは1991年からの30年間で24%ほどだったが、同じ時期にほかの国では大きく膨らんだ。1人当たりGDPはいまやG7で最下位、韓国や台湾にも遅れをとるようになっている。海外経済が拡大する中で、日本の相対的な地位が低下したことは否定できない。そういう意味で、「失ったもの」は確かにありそうだ。

 

 

 しかし、そもそもGDPや株価を見てこの30年間を評価してよいのだろうかという疑問も残る。

 

 この間、日本では人口構成が大きく変わっている。生産年齢人口は1990年代半ばをピークに減り続けており、労働時間も大きく減少している。就業者1人当たりの年間労働時間は、1988年の約2,100時間から2023年には1,600時間へと、2割も短くなっている。つまり経済活動に投入する「人と時間」が大きく減る中で、一定の経済規模を維持してきたとも言える。事実、働き手1人当たりで測り直せば、日本の成長率はほかの国に見劣りしない。働く時間が短くなったこと、そのぶん家族や健康に向けられた時間まで「損失」と呼ぶ必要はなさそうだ。

 

 

 もう一つ、日本経済には数字に表れにくい特徴もある。日本の消費者は価格にも品質にも厳しい。企業にとって値上げは至難の業でもあった。企業も「同じ値段なら、より良いものを」と努力してきた。例えば、コンビニの商品から宅配、外食、製造業まで、「この価格でここまでやるのか」と思うサービスは少なくない。このような目に見えづらいサービスは消費者にとっての利益にはなるが、企業の視点では、品質向上によって生み出した価値を価格として十分に回収できなかったとも言えるだろう。値上げをせずに頑張る、コストを自社で吸収する、顧客に迷惑をかけない。「三方良し」にも通じる商道徳を守ってきたとも言えそうだ。そして、多くの場合は消費者と企業(で働く労働者)は表裏一体の関係にもあるとしたら、実のところ、私たち自身が自分に厳しくあり続けようという姿勢を貫いてきたと言えるのかもしれない。

 

 

 企業にとっては当然といえる対応も、社会全体では別の結果を生む。企業が値上げを避ければ売上は増えにくく、賃金も上げにくい。所得が増えなければ、消費者はさらに価格に敏感になる。「良いものを安く」という努力が、結果としてデフレを長引かせた面もあったのではないか。企業は、国内の厳しい競争を糧に、成長の源泉を海外市場に求めた。いまや海外から流れ込む所得は2025年には年42兆円を超え、国全体では561兆円もの対外純資産を抱える世界屈指の債権国になっている。稼ぐ力は必ずしも失われていない。ただ、その稼ぎが国内の賃金や物価には、なかなか還ってこなかったと指摘することはできそうだ。

 

 

 少しずつ紐解いていくと、日本の30年は単純に「失われた」のではない。一括りに考えてしまうと、課題を見過ごすことにもなりかねない。

 

 

 少ない労働投入で経済を維持し、品質を高め、社会の安定を保ってきた。その一方で、そこで生み出した価値を価格や賃金に変え、次の成長につなげることには成功しなかった。時間当たりの生産性は、円安とはいえ、OECD加盟国では20位台後半にとどまることは、その裏返しでもある。私たちが得たのはちょっとしたものかもしれないけれど「ゆとり」で、うまく手にできなかったのは「創造した価値を正しく値づけする力」だったのかもしれない。

 

 

 失われた30年という言葉を使うなら、問うべきことは、この30年で何を失い、何を得たのかをもっと明確にしていく必要がありそうだ。そして、得たものをなぜ豊かさとして実感できなかったのか。その問いから始めた方が、日本経済の姿はもう少し正確に見えてくるように思う。

 

 

 8月17日には2026年4-6月期のGDP統計が公表される予定だ。これまでとは少し視点を変えて数字に向き合ってみたい。

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