見えなかったコスト ― 値札の向こう側にあるもの

2026年09月25日

住友商事グローバルリサーチ(株)代表取締役社長
横濱 雅彦

> English Version

 

 「ただより高いものはない」といいます。無料のサービスも、広告収入や利用データの活用など、見えにくい仕組みに支えられていることがあります。もっとも、安いことや無料であること自体が悪いわけではありません。安い商品の背後には企業の努力や効率化、低金利の背後には金融政策があります。ただ、物事を支えるには何らかのコストがあり、それを誰がどのように負担しているかはなかなか見えませんでした。最近、その「見えなかったコスト」が少しずつ姿を現しているように感じます。SCGRメンバーの最近のレポートやコラムを読み返すと、食料、金利、脱炭素という、一見ばらばらに見えるテーマにも、共通する問いが見えてきましたので、ご紹介したいと思います。

 

まず、本間経済部長のコラム『失われた30年に、何を失ったのか』は、この30年間を単純に「失われた」と捉えることに疑問を投げかけます。労働時間が短くなる中で経済規模を維持し、品質や社会の安定を保ち、ある種の「ゆとり」を得た面もあったと評価しています。その一方で、日本企業が「同じ値段なら、より良いものを」と品質を高め、値上げを避け、コストを自社で吸収してきた結果、生み出した価値を価格として十分に回収できず、それを賃金や次の成長にもつなげられなかったのではないか、と問いかけます。そして、私たちが「うまく手にできなかったのは『創造した価値を正しく値づけする力』だったのかもしれない」と表現しています(注1)。これは本稿のテーマでもある「見えなかったコスト」と表裏一体の問題に思えます。コストを価格に乗せられなければ、誰かがそれを吸収します。同時に、価値を適切に価格へ反映できなければ、賃金や投資にもつながりません。「良いものを安く」という努力が、結果としてデフレを長引かせた面もあったのではないか、という問いかけは、改めて考えさせられます。

 

 例えばコメ価格を巡る議論では、消費者は少しでも安い価格を望み、生産者は再生産可能な価格を求めます。どちらも当然です。しかし、真鍋アナリストの『食料システム法-『合理的な価格』を目指して-』によると、基幹的農業従事者は約98万7,000人と100万人を下回り、平均年齢は67.7歳に達しています。コメ5kgの「適正価格」についても、消費者と生産者の最多回答には1,500円の開きがありました(注2)。値札の向こう側にある人件費、肥料代、エネルギー費、物流費まで意識することは多くありません。安さを維持するために生産者が十分な収益を得られず、担い手が減り、将来の供給力まで細ってしまうとすれば、その「安さ」の見えない代償は深刻です。

 


 金利もいわば「お金の値段」です。日本では長い間、その値段がほとんど意識されない超低金利の時代が続きました。鈴木将之チーフエコノミストの『金融市場からの警鐘』(注3)が示すように、2026年は長期金利の上昇と円安の進行が、金融市場の大きな論点となっています。低金利には、企業の投資や住宅取得を支え、政府の利払い負担を抑える大きな恩恵もありました。一方、金利が長期にわたって極めて低いと、借り入れに伴う負担や、事業の採算性の差が、資金コストには表れにくくなる面があります。金利上昇とは、単に住宅ローンの返済額の話に留まらず、企業、家計、政府が改めて「資金にも価格がある」という現実に向き合うことでもあります。

 

 そして従来、最もコストが見えにくかったのが環境です。気候変動による被害や対策費用のすべてをCO₂の排出者自身が直接負担してきたわけではありません。この「外部コスト」を価格や取引条件に反映しようとする仕組みとして、炭素税や排出量取引が広がり、EUでは炭素国境調整措置(CBAM)が本格運用に移りました。すなわちCO₂にも値札が付き始めたのです。宮之原シニアアナリストの『世界のカーボンプライシングの動向』(注4)は、カーボンプライシングが、実際のコストや契約条件、市場アクセス、さらには電力・燃料・素材価格など、幅広い企業活動にも影響を及ぼす段階に入ったことを指摘しています。

 

 食料、金利、環境。それぞれ別の問題ですが、その根底には「価格は本当に必要なコストや価値を映しているのか」という共通の問いがあります。安いこと、低いこと、無料であること自体が問題ということではありません。むしろ日本は長い間、「良いものを安く」提供する努力によって大きな豊かさを享受してきたことも事実です。しかし、その過程でコストを誰かが吸収し、せっかく生み出した価値にも十分な値段を付けられなかったとすれば、そろそろ価格を見る物差しを少し変える必要があるのかもしれません。そうでなければ、供給を担う人材や次の投資を維持し、社会の持続可能性を高めていくことも難しくなります。値札の数字だけでなく、その向こう側で誰が負担し、誰が価値を生み出し、何が将来へ先送りされているのかまで想像する。地政学的緊張により、資源・エネルギー価格が揺れ、サプライチェーンを多元化し、強靱化すること自体にもコストがかかる時代だからこそ、そうした「値札の向こう側」を見る視点は、ますます重要になると思います。


注1:失われた30年に、何を失ったのか (経済部長 本間隆行 2026年8月12日)https://www.scgr.co.jp/report/column/2026081282975/

注2:食料システム法-「合理的な価格」-を目指して (経済部シニアアナリスト 真鍋舞 2026年8月7日)
https://www.scgr.co.jp/report/survey/2026080782945/

注3:金融市場からの警鐘~日本経済2026年7月 (経済部チーフエコノミスト 鈴木将之 2026年7月28日)
https://www.scgr.co.jp/report/survey/2026072882494/

注4:世界のカーボンプライシングの動向 - 世界銀行・ICAPレポートから見る主要国・地域の制度変化と企業への示唆(経済部シニアアナリスト 宮之原正道 2026年8月7日)
https://www.scgr.co.jp/report/survey/2026080782896/

 

当社のLinkedInアカウントをフォローいただくと、新しいコラムやレポートへのアクセスが便利です。

 LinkedIn

※QRコードを読み取るか、PCでご覧の方は上記リンクよりアクセスいただけます。

記事のご利用について:当記事は、住友商事グローバルリサーチ株式会社(以下、「当社」)が信頼できると判断した情報に基づいて作成しており、作成にあたっては細心の注意を払っておりますが、当社及び住友商事グループは、その情報の正確性、完全性、信頼性、安全性等において、いかなる保証もいたしません。当記事は、情報提供を目的として作成されたものであり、投資その他何らかの行動を勧誘するものではありません。また、当記事は筆者の見解に基づき作成されたものであり、当社及び住友商事グループの統一された見解ではありません。当記事の全部または一部を著作権法で認められる範囲を超えて無断で利用することはご遠慮ください。なお、当社は、予告なしに当記事の変更・削除等を行うことがあります。当サイト内の記事のご利用についての詳細は「サイトのご利用について」をご確認ください。