世界のカーボンプライシングの動向 -世界銀行・ICAPレポートから見る主要国・地域の制度変化と企業への示唆
2026年08月07日
住友商事グローバルリサーチ 経済部 戦略調査チーム シニアアナリスト
宮之原 正道
1. はじめに -問題意識と目的
企業がカーボンプライシングの負担や事業への影響を見極めるには、制度の有無や価格水準だけでなく、対象範囲や排出量の管理方式、排出枠の配分方法等を確認する必要がある。同じ排出量取引制度(ETS)でも、排出総量と排出原単位のいずれを管理するか、排出枠を無償配分するか有償で取得させるかによって、実際の負担は異なる。また、その影響は直接的な排出コストにとどまらず、EUの炭素国境調整メカニズム(CBAM)を通じた貿易条件、電力・燃料・素材価格等幅広い企業活動に及んでいる。
特に昨年から今年にかけては、日本、インド、ベトナムで全国レベルの制度が実装段階に入り、EUのCBAMも本格運用に移った。一方、中国、韓国、EU等の既存制度では、対象部門や排出枠の配分、市場安定化措置等の見直しが進んでいる。カーボンプライシングを導入の有無だけではなく、具体的な制度設計と運用が企業活動や国際取引を左右する段階に入りつつあることが、本レポートで取り上げる背景である。
本レポートを通じて確認されるのは、カーボンプライシングの制度数や対象範囲が拡大する一方、対象業種、価格水準、排出枠の配分、国境措置や支援策との組み合わせは、地域や制度によって異なっているという点である。従って、企業にとって重要なのは、事業を行う地域、適用される制度、導入・強化の時期を踏まえ、自社に生じる実効的なコストと競争条件の変化を捉えることである。
こうした問題意識のもと、本レポートでは、世界銀行の「State and Trends of Carbon Pricing 2026」と、各国・地域政府が参加する国際炭素行動パートナーシップ(ICAP)の「Emissions Trading Worldwide: Status Report 2026」を主な材料として、2025~26年の制度変化と日本企業への示唆を整理することを目的とする。まず、世界全体の変化を概観した上で、①中国や韓国等における既存ETSの再設計、②日本、インド、ベトナムにおける全国制度の実装、③CBAM、政府収入の使途、炭素クレジットの選別を通じたカーボンプライシングの機能の拡張を取り上げる。次いで、企業への影響を捉えるための視点を示す。
なお、世界銀行及びICAP両レポートの発行は、それぞれ2026年5月と4月である。このため、それ以降に公表された重要な政策動向については、各国政府の公開情報により適宜補足した。
2. 2025~26年のカーボンプライシングの主な変化
世界銀行とICAPの2026年版レポートから読み取れる、この1年の主な変化は図表1の通りである。
図表1からは、制度数、対象排出量、政府収入、平均炭素価格のいずれも拡大または上昇しており、世界のカーボンプライシングが量的な拡大を続けていることが分かる。日本、インド、ベトナム等で全国レベルの制度が実装段階に入ったことも、制度数と対象排出量の増加に寄与している。
一方、企業実務上より重要なのは、新規・既存制度の双方で、対象範囲、排出枠の配分、排出量の算定・検証、排出枠やクレジットの取引等の具体的な運用が進み、炭素価格が実際のコスト、契約条件、市場アクセスに反映される局面に入ったことである(詳細は第3~5章で詳述)。
3. 主要ETSの制度変更 -対象範囲・排出枠配分・価格安定策を再設計
図表2に、2025~26年に制度変更がみられた各国・地域の代表例を示す。変更の方向は一様ではなく、中国では対象部門が拡大し、韓国では発電部門の有償配分が増加する一方、カリフォルニア州では制度を長期延長しつつ、価格抑制や産業支援を強化した。またEU ETS2でも、本格運用に向けて価格安定策が拡充されている。共通するのは、単に炭素価格を引き上げるのではなく、産業競争力やエネルギー価格への影響を踏まえ、対象範囲、排出枠の配分、価格安定策、クレジット利用、支援策を組み合わせて制度を再設計している点である。
図表2が示すように、制度変更が企業に影響する経路も一様ではない。中国では鉄鋼、セメント、アルミ精錬が新たに直接の対象となった一方、韓国では発電部門の有償配分拡大が、電力価格の上昇を通じて他産業にも波及する可能性がある。カリフォルニア州ではクレジット利用上限の拡大が義務履行の柔軟性を高め、製造業向け脱炭素投資支援の拡充が設備投資負担を軽減し得る。EU ETS2では価格安定化措置が排出枠価格の急騰を抑え、社会気候基金が燃料・輸送コスト上昇による家計や小規模事業者の負担を軽減し得る。
従って、既存ETSの見直しによる企業への影響は、排出枠価格の水準だけでは判断できない。対象部門の拡大や有償配分への移行が、どの時期に、どの部門から進むのか、また、その負担が電力・燃料・素材価格を通じてどこまで波及し、クレジット利用や支援策によってどの程度緩和されるのかによって、実際の影響は異なる。既存ETSでは、制度が強化されるか否かだけでなく、負担がどのような経路と速度で具体化するかが、企業にとっての重要な論点となる。
4. 日本・アジアで全国制度が実装段階へ -同時期の導入でも異なる制度設計
図表3に、2025~26年に全国レベルで実装段階に入った日本、インド、ベトナムの制度を示す。導入時期は近いものの、日本は企業単位の排出総量、インドは製品当たりの排出原単位、ベトナムは施設別に配分される排出枠を基礎としており、制度設計は大きく異なる。
この制度設計の違いにより、企業の負担を左右する要因も異なる。日本では排出実績量と政府から割り当てられる排出枠との差、インドでは業種別の排出原単位目標の達成度、ベトナムでは施設別の割当量に加え、クレジット利用や借入れ等の柔軟措置が重要となる。従い、企業は各制度で管理対象となる指標と、負担を調整する仕組みを個別に把握する必要がある。加えて、負担の試算に当たっても、単純に総排出量に炭素価格を乗じるのではなく、制度上の義務履行に必要となる排出枠やクレジットの不足分と、その調達価格を基礎とする必要がある。
5. カーボンプライシングの機能拡張 -通商条件、政策財源、クレジットの選別へ
カーボンプライシングの影響は、排出削減を促す価格付けにとどまらず、通商政策、政策財源、炭素クレジット市場へ広がっている。2025~26年には、EU-CBAMの本格運用、政府収入の増加、炭素クレジットの品質・適格性による価格差の顕在化を通じて、こうした機能の広がりが一段と明確になった。本章では、この3点を取り上げる。
5-1. CBAM -炭素価格を貿易条件に組み込む
EUのCBAMは2026年1月に本格運用段階へ入り、2026年の輸入分に対応するCBAM証書の購入は2027年2月から始まる。企業の実務上の焦点は、対象製品の判定、製品別の内包排出量の算定・検証、原産国で実際に支払った炭素価格の証明へと移っている。
CBAMの対象範囲も拡大する方向にある。EU理事会は2026年6月、鉄鋼やアルミ等を多く使用する一部の下流製品を対象に加えるとともに、対象外の製品への加工や報告上の操作による制度の迂回を防ぐ措置について交渉方針を決定した。最終的な内容は欧州議会との協議を経て決まるが、対象が部品・加工品へ広がれば、現在の対象素材を直接輸出していない企業にも影響が及ぶ可能性がある。
さらに欧州委員会は同年7月、EU ETSの改正案を公表した。同案は航空・海運、都市ごみ焼却、投資支援等を含む広範な見直しであるが、CBAMとの関係で特に重要なのは、EU域内企業への無償配分と輸入品のCBAM負担との調整である(*)。無償配分の縮小時期や方法が変われば、輸入品に求められる負担の増加ペースにも影響する。現在、提案段階にあるため今後の欧州議会とEU理事会の審議の行方は注視が必要である。
CBAM対応における企業実務上の課題は、証書購入額の計算だけではなく、サプライチェーンを遡り、製品別の内包排出量と原産国で実際に支払った炭素価格を継続的に把握・証明することにある。さらに、下流製品への対象拡大、迂回防止措置、EU域内企業への無償配分、算定・検証ルールが見直されれば、対象となる製品や負担額も変わる。このため、先述の鉄鋼やアルミ等を使用する部品・加工品についても、将来の対象化や負担増を織り込んだ試算が必要となる。
*CBAMでは、EU域内企業への無償配分水準を踏まえ、輸入品のCBAM負担を調整する仕組みが導入されている。具体的には、無償配分が残る間はその相当分を輸入品のCBAM証書提出義務から控除し、無償配分の縮小に応じてこの控除も段階的に縮小する。最終的に無償配分がなくなると、控除も消滅する。
5-2. 収入使途 -徴収から産業・社会への還流へ
図表4にETS・炭素税による政府収入の推移を示す。カーボンプライシングによる政府収入は、制度の対象拡大、炭素価格の上昇、排出枠オークションの拡大に伴って増加している。
政府収入はこの10年間で3.6倍となり、その中心も炭素税からETSへ移った。2016年には炭素税収入がETS収入の約3倍だったが、2025年にはETS収入が全体の約4分の3を占めている。これは、カーボンプライシングの対象拡大だけでなく、排出枠を無償で配分する制度から、オークションを通じて有償で配分する制度への移行が進んでいることを反映している。
こうした収入は、単に一般財源へ組み入れられるだけではない。例えばEUでは、低炭素技術や産業設備の実用化を支援するイノベーション基金、再生可能エネルギー、送電網、蓄電、エネルギー効率改善等を支援する近代化基金、家計や小規模事業者の負担軽減を目的とする社会気候基金等に、ETSのオークション収入が充てられている(基金規模はそれぞれ約400億ユーロ、約570億ユーロ、最大650億ユーロ)。企業や家計から徴収した資金の一部を、脱炭素投資やエネルギーコスト対策へ還流する仕組みである。
このため、企業への影響は、排出枠や炭素税の支払額だけでは判断できない。EU域内に拠点や投資案件を有する企業は、低炭素設備、再生可能エネルギー、エネルギー効率改善、技術開発等に利用できる補助金や基金も確認し、制度による負担と、自社が利用可能な支援をそれぞれ把握した上で、事業採算を評価する必要がある(*)。
*日本企業を含むEU域外企業も、EU域内の現地法人や投資案件を通じて、Innovation Fund等の支援対象となる場合がある。適用可否は、案件所在地、申請主体、対象技術等の個別要件による。
5-3. 炭素クレジット -数量から品質・適格性による選別へ
規制・制度の動きに加えて、企業が義務履行や自主的な排出削減目標の達成に利用する炭素クレジットの動向についても、事業への影響を捉える上で重要となる。図表5に、2024年と2025年の炭素クレジットの発行量・償却量を示す。
2025年のクレジット発行量は前年比で8%増加した一方、償却量は11%減少した。発行量の増加には、政府が運営する制度や世界銀行等の国際的な制度による発行の増加が寄与した。他方、償却量の減少は、2024年にカリフォルニア州で一時的に増加した義務履行目的の利用が通常の水準に戻った影響が大きく、自主的な利用を目的とする償却量は概ね横ばいだった。
市場全体では発行量が償却量を大きく上回っており、数量面だけを見れば供給余力があるようにみえる。しかし、全てのクレジットが同じ目的に利用できるわけではない。クレジットの利用に当たっては、数量だけでなく、①方法論、発行年、事業地域、ホスト国の承認等、制度や利用目的に応じた要件を満たしているかという適格性、②追加性、算定の確かさ、貯留の永続性、二重計上の防止等に関する品質、という二つの観点から確認する必要がある。
このうち、適格性の有無が価格差として表れている例が、図表6のCORSIA関連クレジットである。CORSIAは、国際民間航空機関(ICAO)が運営する国際航空向けの排出相殺制度であり、航空会社が義務履行に使用できるクレジットには一定の適格要件が課される。CORSIA適格クレジットは、CORSIAの適格要件を満たす可能性はあるものの、まだ承認されていないクレジットよりも対象期間を通じて高値で推移し、両者の価格差は概ね1.5~6ドル/tCO₂eであった。これは、実際に制度上利用できることが市場で評価されていることを示している。
もう一つの観点である品質についても、価格差がみられる。世界銀行のレポートにて紹介しているICVCM(自主的炭素市場の信頼性に関する国際基準を策定・維持する独立非営利の統治機関)の推計によると、品質基準である「コア・カーボン原則(CCP)」のラベルが付されたクレジットは、ラベルのないクレジットに比べ、平均約25%の価格プレミアムを得ている。CCPラベルは、個々のプロジェクトを一律に格付けするものではなく、クレジット制度や方法論、クレジットカテゴリーが、ガバナンス、追加性、算定の堅牢性等の基準を満たしていることを示すものである。平均約25%という数値は推計であり、市場全体に一律に当てはまるものではないが、品質に対する買い手の選別が価格に反映され始めていることを示している。
以上から、炭素クレジット市場は、単純に発行量や平均価格だけで捉えることが難しくなっている。市場全体で発行量が償却量を上回っていても、特定の制度で利用できるクレジットや、一定の品質要件を満たすクレジットが、必要な時期に十分供給されるとは限らない。企業がクレジットを調達する際には、利用目的と必要時期を起点に、対象制度や利用目的に照らして使用できるかという適格性と、追加性や永続性等に関する品質を、それぞれ確認することが重要になる。
6. まとめ -地域・制度・時間軸で事業への影響を捉える
本レポートで見てきた通り、2025~26年も世界のカーボンプライシングは、制度数、対象排出量、政府収入、炭素価格の面で量的な拡大を続けた。既存ETSでは対象範囲、排出枠の配分、価格安定策等の再設計が進み、日本、インド、ベトナム等では全国制度が実装段階に入った。ただし、各国の制度が単一の炭素価格や共通の仕組みに収斂しているわけではなく、企業が管理すべき指標や負担の生じ方は制度によって異なる。
また、企業への影響は、排出枠や炭素税の直接的な支払いにとどまらない。CBAMを通じた輸出条件への反映、政府収入を原資とする支援制度、用途や品質によって分化する炭素クレジット市場等、カーボンプライシングの機能は広がっている。従って、企業への影響を把握するには、炭素価格の水準だけでなく、地域、制度、時間軸を区別して見る必要がある。図表7に、この3つの視点から確認すべき項目と、主な事業上の論点を整理した。
この3つの視点は相互に関連している。例えば、生産国での直接負担が小さくても、輸出先のCBAMや、将来の無償配分縮小等を通じて事業への影響が生じる可能性がある。このため、地域・制度・時間軸を個別に見るのではなく、組み合わせて捉えることが重要である。
以上の動きからは、カーボンプライシングを世界共通の一つの価格として捉えるだけでは、企業への影響を十分に把握しにくいことがうかがえる。企業がその影響を見極めるには、「炭素価格はいくらか」だけでなく、どの地域で、どの制度が適用され、どのような経路で事業に影響し、その条件が時間とともにどう変わるかを把握する必要がある。
こうした点を踏まえると、排出量や炭素価格に関するデータは、環境情報にとどまらず、価格転嫁、調達、投資、立地等の判断にも関わる。カーボンプライシングを、環境関連だけの課題ではなく、事業採算や競争条件に影響する経営上の要素として捉える視点が重要になっている。
以上
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<執筆者・アーカイブ>宮之原 正道 |
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