7.15クーデター未遂後のトルコ情勢

2016年08月24日

住友商事グローバルリサーチ 国際部
広瀬 真司

1.はじめに

 7月15日にトルコで発生した軍事クーデター未遂事件は世界を驚かせた。トルコはG20にも参加し、2000年代に著しい経済成長を遂げた新興国の代表である。米国が主導する北大西洋条約機構(NATO)の加盟国で、欧州連合(EU)とは加盟交渉を行っている。どちらかと言えば西側諸国の一員という印象を持つ人も多い。実はトルコ国民の99%はイスラム教徒であるが、1923年のトルコ共和国建国以来、政教分離を徹底する世俗主義を国是としている。商業都市イスタンブールの新市街は欧米の町並みと変わらず、地中海のリゾートは肌を露出した外国人観光客であふれている。最後の大規模なクーデターは1980年と36年前で、国民の半分を占める30歳以下のトルコ人にとって、自国でのクーデターは教科書の中の出来事である。今さらクーデターが起こると予想していた人はほとんどいなかったのではないだろうか。

 

 

2.クーデター後の粛清とギュレン運動

 クーデター未遂自体は、首都アンカラで国会議事堂が爆撃されるなど一時大騒ぎとなったが、大統領も首相もクーデター分子に捕らえられることなく、結局、半日程度で収まった。一方、エルドアン大統領は事件後に大規模な粛清に動いている。エルドアン大統領は、軍が行動を起こした直後に、iPhoneのテレビ電話アプリでCNNトルコに出演し、首謀者は米国在住のギュレン師および「ギュレン運動」関係者であることを発表した。ユルドゥルム首相によると、クーデター後の一時拘束者は既に4万人を超えている。このうち、拘束後に正式に逮捕されたのが約2万人、引き続き拘束されている人が4,000人以上いるとのこと。ちなみに、これら大勢の拘束者を収容するため、クーデター以前に罪を犯して収監されていた3万8,000人の囚人を仮釈放するとトルコ政府は発表した。また、主に教職員や省庁職員など8万人を超える公務員を解雇もしくは停職処分とし、さらに海外逃亡を防ぐべく7万5,000人のパスポートを没収している。多くの人が粛清対象になっているが、これはクーデターに直接関わった者の処罰というよりは、ギュレン運動とのつながりが疑われる者や反体制派の人物等、エルドアン大統領に敵対する者全てが粛清対象だからとみられている。首謀者と名指しされたギュレン師自身は、クーデター未遂への直接関与を否定し、逆にエルドアン大統領の自作自演なのではないかと批判している。ただ、自分の信奉者がクーデターに関与したかもしれないという点は、認めている。

 

 ギュレン運動とはトルコ人のイスラム教指導者、フェトフッラー・ギュレン師の考え方(イスラム主義であるが過激思想を排し、西欧世界や他宗教との対話・共存を志向する)に同調する人たちのことで、軍や警察、司法、省庁、メディア、諜報機関などあらゆるところに浸透していると言われる。もともとギュレン師とエルドアン大統領は盟友(どちらも穏健イスラム主義)で、2000年代には軍の力をそぐという共通の目的を達成するため、両者は協力していた。しかし、あまりに多くのギュレン運動関係者が政府内で影響力を持つようになり、エルドアン大統領は徐々に政府を乗っ取られるのではないかと脅威を感じ始めた。2人がたもとを分かった決定的な事件は2013年末、汚職事件に絡む大統領と側近の会話の盗聴音声が暴露されたことである。これをギュレン運動関係者の仕業と断定し、ギュレン運動を国家を乗っ取ろうとするテロ組織と指定した。ギュレン系の学校や関連施設を閉鎖するなど弾圧が始まった。実は、ギュレン系の学校は世界160か国以上にあるとされ、トルコ政府は各国政府にこれらの学校の閉鎖を要請している。「教育は内政問題である」として受け付けない国もあるが、既に幾つかの国では学校の閉鎖が始まり、他国を巻き込み始めている。今回のクーデター未遂後に、エルドアン大統領ははっきりと「ギュレン運動関係者を政府内から一掃する」と宣言したが、現時点ではクーデターの真相や、何が引き金になったかは解明されていない。8月に開催される予定だった軍の幹部人事を決める高等軍事評議会で、ギュレン運動関係者が一斉追放されるとの情報をつかんでいたからとか、7月下旬にギュレン運動関係者の大量逮捕が予定されていたからといった説が指摘されているが、現在のところ真相は闇の中である。

 

 

3.軍の弱体化を狙う大統領と各政党の動き

 クーデター未遂から5日後の7月20日にはトルコ全土に非常事態が宣言され、大統領権限が強化された。大統領はその権限を背景に、特に今回のクーデター未遂の中心となった軍に対して厳しく臨んでいる。准将以上の上級将校に対し、全体の約4割の149人を不名誉除隊処分とした。また、将来の軍を担う若者の教育を管理するため、現在ある軍士官学校を閉鎖し、国防省傘下に新たに国防大学を設立することを発表した。また、軍参謀本部の指揮下にあった陸・海・空の3軍を国防省傘下に移管するほか(【図表1】参照)、クーデターの情報を事前に察知していたにもかかわらず大統領に速やかに報告しなかった諜報機関(MIT)や軍参謀本部も今後は大統領直轄下に置く考えで、これでトルコ軍はほぼ全てが大統領及び政府の指揮命令系統下に入ることになる。ただこの変更には憲法の改正が必要で、非常事態宣言下でも大統領権限では決められない。今後国会を通して憲法の改正審議をする必要があり、そのためには野党の協力が必要になってくる。

 

【図表1】軍の解体を狙うエルドアン大統領

【図表1】 軍の解体を狙うエルドアン大統領(出所:各種資料を基に住友商事グローバルリサーチ作成)

 

 クーデター事件後、与党の公正発展党(AKP)、野党の共和人民党(CHP)、国民民主主義党(HDP)、民族主義者行動党(MHP)という国会に議席を持つ4党が、クーデター非難の共同声明を発表した。4党は主義主張が大きく異なるため(【図表2】参照)、これまでに4党共同で声明を出す機会は無く、クーデター未遂を経て4党がついに一つになったと大きな話題を呼んだが、非常事態宣言については、大統領権限の強化を懸念したCHPとHDPは反対に回った(しかし、3分の2を超える得票率で可決)。7月25日にエルドアン大統領は、今後の憲法改正について話し合うため与野党党首を大統領宮殿に招待したが、クルド系政党HDPのデミルタシュ共同党首だけは招かれなかった。クーデター非難では一時的に一致団結した4党も、既にその団結は崩れつつある。特にHDPを団結から除外する動きが目立っており、8月7日に100万人が集まったとされる超党派集会の場にもHDP党首だけが呼ばれなかった。HDPが、現在トルコ軍が戦っているPKK(クルド労働者党)とつながっているのではないかと疑いを掛けられているからである。

 

【図表2】トルコ国会の4大政党

【図表2】 トルコ国会の4大政党(出所:各種資料を基に住友商事グローバルリサーチ作成)

 

4.経済情勢

 トルコは2002〜07年に平均6.8%という驚異的な経済成長を遂げ、1人当たり国内総生産(GDP)も2008年には1万ドルを超えた。しかしその後、トルコリラが下落基調を続けてドルベースの経済成長率は鈍化し、2015年には1人当たりGDPが再び1万ドルを割ってしまった。リラは2011年頃まで1ドル=1.5リラ近辺で動いていたが、トルコでテロ事件が頻発し始めた2015年以降は1ドル=3リラ付近で推移しており、この数年でリラは対ドルで価値が半分に目減りした。リラは今回のクーデター未遂後の7月20日、対ドルで過去最安値(1ドル=3.0973リラ)を更新した(【図表3】参照)。同日は非常事態宣言を発令した日で、政治的な不安定さなどが市場に嫌気されたと言える。その後は1ドル=2.96リラまで戻ってひとまず落ち着きを取り戻しているが、輸入品の価格上昇などの影響で7月のインフレ率は9%近くまで上昇している。インフレ抑制はトルコ経済が抱える課題の一つだが、トルコ中央銀行は景気テコ入れのために8月まで6か月連続で利下げを断行している。背景には、消費で経済のテコ入れを図るエルドアン大統領の意向が指摘される。過去にはババジャン元経済担当副首相やバシュチュ前中央銀行総裁らのように、中銀の独立性の観点から、利下げ要求圧力に異を唱えた人もいたが、彼らは既に政権から外れている。

 

 海外からの投資や借り入れを大きく左右する格付け機関の動きにも注意が必要だ。米S&Pグローバルはクーデター未遂事件後、政府機関の抑制と均衡が崩れると懸念して外貨建て長期債務をダブルBに格下げした。英フィッチ・レーティングスは19日、投資適格の最低ラインを維持したものの、公務員の大量粛清による公的機能の低下などを懸念し、見通しはネガティブとした。米ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、2013年5月からトルコ国債を投資適格級で最低のBaa3とし、現在投機的水準にダウングレードすべきかどうかを精査中である。大手格付け機関から次々と投資適格を失えば、国際金融市場から資金調達しているトルコ経済は苦境に立たされる。

 

【図表3】トルコリラ(対ドル)推移

【図表3】 トルコリラ(対ドル)推移(出所:Bloombergを基に住友商事グローバルリサーチ作成)

 

 クーデター未遂以前から減速傾向にあったのが観光業である。トルコは年間の観光客数が世界6位(約4,000万人)という観光立国で、間接的なものまで含めたGDPへの同産業の総貢献度は12.9%という重要な産業なのだが、2016年に入り観光客数が伸び悩んでいる(【図表4】参照)。2016年1月にイスタンブール旧市街で起きたテロ事件でドイツ人10人が犠牲となり、外国人が明確にテロのターゲットになったことに衝撃が広がったことに加え、外国人観光客の10%を占めていたロシアが、2015年11月のトルコ軍によるロシア軍機撃墜の後、トルコへのパッケージツアーやチャーター機を全て禁止したことが大きな理由である。

 

【図表4】観光客数の変遷(2011年~)

【図表4】 観光客数の変遷(2011年~)(出所:トルコ統計局を基に住友商事グローバルリサーチ作成)

 

5.国際関係

 国際関係に目を向けると、トルコと欧州連合(EU)との間で緊張が高まっている。トルコとEUは3月、難民対策で合意を結んでいる。トルコからギリシャに渡ってEU域内に拡散する難民の流れを止めるべく、EUはトルコに協力を要請しその見返りに提示したのが、①30億ユーロの追加支援、②トルコ国民のEU訪問時の査証(ビザ)免除、③頓挫しているEU加盟交渉の促進である。このうち②のビザ免除に関しては「6月末までに免除の合意」という期限付きだったが、8月になった今も交渉中である。EU側が条件とする反テロ法の緩和を、トルコ側が「内政干渉」として拒否しているためである。③のEU加盟交渉に関してはオーストリアのケルン首相が「トルコのEU加盟はおとぎ話」と発言するなど、明るい兆しは見えない。さらに、クーデター未遂後エルドアン大統領は、EU加盟のために2004年に一度廃止した死刑制度の復活を示唆しており、仮にトルコで死刑制度が復活すれば加盟交渉は行わない旨、EUの首脳陣が発言している。

 

 米国との関係では、エルドアン大統領がクーデター首謀者と断定した米国在住のイスラム教指導者、フェトフッラー・ギュレン師の引き渡し要求が問題になっている。米政府は「確たる証拠」を示さなければ同師の引き渡しはできないという姿勢だが、この返答にエルドアン大統領は「これまでトルコは、米国からのテロリスト引き渡し要求に応えてきたではないか」と激怒した。この問題について話し合うため、8月24日にはバイデン米副大統領がトルコを訪問する。最新の世論調査では、トルコ国民の3分の2が「ギュレン師がクーデター未遂の黒幕」というトルコ政府の主張に同意しているだけでなく、クーデターに米国(CIA)が関与していたのではないかという陰謀論まで渦巻いている。クーデター未遂の前から緊張状態にあった両国だが、ギュレン師の引き渡しを巡ってさらに関係が悪化している。

 

 一方、エルドアン大統領はクーデター未遂直前の6月からロシアとの関係改善に動いていた。前述のロシア軍機撃墜事件で関係が悪化し、誹謗中傷合戦を続けていたが、エルドアン大統領がプーチン大統領に謝罪の手紙を出すことで関係修復を図った。クーデター未遂後、プーチン大統領は真っ先に電話でエルドアン大統領に支持を表明し、米国やEUのように政府による大規模粛清を非難するようなことは一切していない。エルドアン大統領がクーデター未遂事件後初の外遊先に選んだのもロシアで、内政干渉してくる欧米を横目に、ロシアと関係改善することでトルコ経済を改善させる道を選んだかっこうだ。ただ、利害が対立するシリア問題での大きな進展は無かったようである。

 

 イランの動きも気になる。クーデター未遂後、イランのザリーフ外相はトルコのチャヴシュオール外相と頻繁に電話で連絡を取り合っていたという。8月12日にはザリーフ外相がトルコを訪問した。ザリーフ外相は、トルコとロシアの関係改善を歓迎した。近々、エルドアン大統領がイランを訪問するという話も出てきている。トルコは、米国やEUに背を向けロシアやイランとの関係構築に動いているように見えるが、トルコにとって米国とEUはあまりにも大事な存在で、これ以上の関係悪化は望んでいないだろう。EUはトルコにとって最大の貿易相手である。ロシアやイランへの接近を見せ付け、米国やEUに難民問題やシリア問題などにおけるトルコの戦略的重要性を再認識させようとしているのかもしれない。

 

 トルコは人口も多く、地政学的にも重要な場所に位置している。トルコの問題はトルコ国内や隣接国だけにとどまらず、混沌とする地域全体の地政学を大きく変えてしまう力を持っている。エルドアン大統領vs.ギュレン師、イスラム主義vs.世俗主義、保守派vs.リベラル派、トルコ民族vs.クルド民族などの様々な内部対立が複雑な力学でトルコの内政、外交、経済政策に影響を及ぼしており、これらを一つずつ理解していくことが、一見複雑に見えるトルコとその周辺の情勢を理解することにつながるであろう。

 

以上

 

(※2016年8月14日、21日 日経ヴェリタス 60ページ(プロが解説)掲載文を一部加筆)

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