欧州今昔物語

2026年07月29日

住友商事グローバルリサーチ 国際部 アナリスト
濱嵜 隆吏

欧州対外行動庁庁舎前の横断幕「Reliable. And that’s the whole point.」(2026年5月筆者撮影)
欧州対外行動庁庁舎前の横断幕「Reliable. And that’s the whole point.」(2026年5月筆者撮影)

 

  1. 欧州の空気

 

 2026年5月24日。欧州出張の最終日、用務を終えて宿舎へ向かう我々を、季節はずれの、30度に迫る熱気が押し包んでいた。5月のブリュッセルといえば、上着が手放せない肌寒い日も珍しくないはずである。しかしながら、冷房のないバスの車内はもはやサウナで、外は重い熱風が肌を撫でていく。異常気象と言ってしまえばそれまでだが、私にはこの暑くて重い空気そのものが、いま欧州が置かれている状況の隠喩のように感じられてならなかった。かつての穏やかで理想主義的な心地よい風は去り、逃れようのない現実ともいうべき重い熱風が欧州を覆い始めている。今回の出張では、その変化をいくつも肌で感じた。

 

 2018年から2年間、私は南ドイツの大学都市テュービンゲンで欧州学を学んでいた。中世の面影が色濃く残る静かな街で、「Brexitを機に、欧州は今後インテグレーション(統合)に向かうのか、それともディスインテグレーション(分裂)に向かうのか」を熱く論じていた。当時、欧州グリーンディールに象徴される「理想主義的な姿」は、「欧州的アイデンティティ」として半ば当然視されていたように思う。

 

 それが大きく変わり始めたのは、ロシアによるウクライナ侵略だった。ベルリンの日本大使館で勤務していた2022年2月24日、すぐ近くのウクライナがロシアによる全面侵略を受けているというのはかなりの衝撃で(ベルリン・キーウ間の直線距離は、大阪・旭川間の直線距離にほぼ等しい)、ショルツ首相(当時)が連邦議会で宣言したとおり、欧州は「Zeitenwende(時代の転換点)」を迎えた。

 

キーウからの避難民が多く到着していたベルリン中央駅に置かれた看板。ウクライナ語で、「ベルリンで滞在先を必要とする方は白いテントへ来てください。そこで最初の支援を受けられます。」という趣旨の内容が記載されている(2022年3月筆者撮影)
キーウからの避難民が多く到着していたベルリン中央駅に置かれた看板。ウクライナ語で、「ベルリンで滞在先を必要とする方は白いテントへ来てください。そこで最初の支援を受けられます。」という趣旨の内容が記載されている(2022年3月筆者撮影)

 

 あれから4年余り。SCGRのアナリストとして再びこの地に立った私を包んだのは、テュービンゲン時代の甘い理想主義でも、ベルリン時代の切迫した危機管理的な風でもない、もっと重く、しかし極めて現実的な「空気」でした。日本から関連報道を追うだけではつかみきれず、また、出張報告や調査レポートの数字や論理の行間からこぼれ落ちてしまう、現場の「温度」や「肌感覚」をお伝えしたい。

 

  1. 「破綻した結婚」

 

 ある専門家は、現在の米欧関係を「破綻した結婚」と評し、映画『ローズ家の戦争』になぞらえ、かつては愛や絆で修復できた亀裂も、今や互いの「痛いところ」を知り尽くしたうえで、相手を傷つけ合う関係に変わっていると述べた。興味深いのは、米政権に対するある種の「麻痺」が広がっていたこと。かつては彼の一挙手一投足に一喜一憂していた欧州が、今や一種の馬耳東風とも言える、冷ややかな反応を見せる場面もあった。

 

 この米国への信頼喪失は、欧州に「自らの運命は自らの手で握る」という覚悟を迫っている。複数の専門家が口を揃えたのは、「かつてのNATOはもはや存在しない」という冷徹な認識だった。グリーンランドを巡り、領有への野心を燃やすトランプ大統領がその手段として武力行使を排除しなかったことは、欧州側の対米認識の決定的な転換点だったように思われる。欧州は米国依存の既存体制から脱却した「より欧州的なNATO」への移行を模索するとともに、防衛投資の大幅増額や、防衛協力の強化等を始めている。もっとも、その道は平坦ではない。欧州の防衛産業は米国企業に比べて規模が小さく再編には困難も存在しており、「Made in Europe」要件を巡る意見の相違等のように、防衛統合を阻む障壁は山積している。

 

  1. 欧州統合

 

 ロンドンのセント・パンクラス駅から、ユーロスターでブリュッセルへと向かう道中、車内放送の第一言語も英語からフランス語へと代わり、車内の空気も少しずつ「大陸」のそれへと変わっていく。進むにつれ、聞こえてくる会話は英語からフランス語に加えて、私に馴染み深いドイツ語も聞こえてくる。この多言語・多文化を前提としつつも、欧州的価値によって結びついていることこそが欧州の力なのだと、国境を越えるたびにスマートフォンへ届く通信キャリアの切り替え通知(尤もEUの取組で域内で追加のローミング料金は課されない)を受け取りながら、感じていた。

 

 一方、私はEUという枠組みの引力について考えていた。内部では「ドラギ・レポート」に象徴されるように、競争力の低下やイノベーションの遅れが悲観的に語られている。しかし、外側に目を向ければ、Brexitという離別を選んだ英国でさえ、約10年を経てその選択を悔い、再び欧州という重力圏に引き寄せられつつある。モンテネグロやアルバニアといった西バルカン諸国が、なお加盟を熱望している現実もある。私は、「理想としての統合」が終わり、剥き出しの利害調整を伴う「生存のための統合」が始まっていることを実感した。

 

 かつてテュービンゲン大学のゼミ室で、我々は「インテグレーションか、ディスインテグレーションか」を論じていた。しかし、あの頃の「統合」を巡る議論はどこか学術的なものにとどまっていたように思い出される。しかし、現在ブリュッセルで交わされる同じ問いは様相が異なる。米国の離反、ロシアの脅威、中国による経済的威圧、そして内部に働く遠心を前に、「団結できなければ生き残れない」という、極めて実存的な問いへと変質している。

 

  1. EUの二面性と日本への期待

 

 そのEUだが、ある専門家は、現在のEUについて二面性があると指摘した。表向きは自由貿易の旗手を自認しながら、その実、中国の過剰生産能力の流入に怯え、「産業加速化法案(IAA)」など「Made in Europe」を掲げる保護主義へと進んでいる。対中貿易赤字が約3,600億ユーロにまで膨れ上がるなか、欧州は自らの産業崩壊を防ぐために、かつての「理念主義的な規制」から生存のための保護主義へと舵を切っている。

 

 しかし、そのEUが日本に向ける視線には、かつてない熱量が込められていた。留学当時、複数の欧州議会議員と意見交換した際、「日本やインド太平洋の重要性をどう考えるか」と問う機会に恵まれた。私の問いに返ってきたのは「インド太平洋は当然、欧州にとっても重要だ」という答えだったが、残念ながら幾分か棒読みなトーンで、具体性に欠けるものだったのが印象的だった。ところが、ロシアによるウクライナ侵略、そして露朝協力の進展を前に、「インド太平洋と欧州の安全保障は一体不可分」であることを欧州側も深く認識し、さらに対米・対中関係が複雑化するなかで、「価値を共有する同志国」として日本に向けられる視線は大きく変わってきている。

 

 かつても日本は「重要なパートナー」ではあったが、欧州の関心の中心は常に米国、あるいは巨大な中国市場にあった。いまブリュッセルで話されているのは、「経済安全保障」や「サプライチェーンのデリスキング」ばかりである。日本企業に対して欧州企業以上に良好なアクセスが確保されているという現状は、単なる好意ではなく、欧州が生き残るためのパートナーの対象として日本を選んだ、切実な期待の表れと言えよう。ただし、複雑な規制が形作られていくなかで、日本企業への良好なアクセスが適切に確保され続けるかを今後もフォローし、それを確保するための努力を怠ってはならないと考える。

 

  1. 欧州の3つのシフト

 

 今回の出張を通じ、私が捉えた欧州の構造変化は、3つの大きなシフトに集約される。

 

 第一に、エネルギーのパラダイムシフト。留学中に同級生が熱く語っていた「クリーンで美しいグリーン」は、今や「安価で安定した安全保障」へとその座を譲っている。原子力が市民権を再獲得し、バイオメタンへの投資も進む現実は、かつての教条的な環境主義からの決別を意味している。

 

 第二に、防衛という概念の「内面化」。ベルリン時代、ショルツ首相(当時)が宣言した1,000億ユーロの特別基金は、今や具体的な再軍備として実体化しつつある。第二次世界大戦後、ドイツの軍備増強には常に警戒感が付きまとってきたのに対し、今や独首相自らが「欧州最強の通常戦力を目指す」と明言し、周辺各国も独の一層の役割に期待しているというのは、隔世の感がある。また、海底ケーブルの切断といった「ハイブリッド戦」が日常の一部となり、宇宙デブリ回収やドローン技術といった新領域での協力も、かつてないスピードで具体化している。

 

 第三に、「戦略的自律」。欧州はもはや、米国が以前のような「世界を支えるスーパーパワー」に戻ることを期待していないように見受けられる。否応なしに「独自のテクノロジー主権」の確立を迫られ、自らの運命を自らの手で握るための「戦略的自律」へと向かっている。防衛から経済、そして先端技術まで、あらゆる分野で欧州独自の「自律」を達成することを、本気で目指している。

 

  1. 結び

 

 欧州は、大きな変革の入り口に立っている。その変化のプロセスは複雑で、多くの歪みと矛盾を伴うものとなることが想像される。しかし、そこにこそ、アナリストが存在すべき本質的な役割が隠されているのだと痛感した。私に語りかけてきた「空気」のメッセージを、SCGRのアナリストとして、そしてベルリンで「時代の転換点」を現場で経験した一人の欧州政治の徒として、精緻に読み解き続けていきたいと思う。

 


 

<執筆者アーカイブ>

調査レポート 英国バーナム新政権の政策展望(2026/7/22))

コラム NATO首脳会合の「成功」――欧州・トルコ・ウクライナの思惑(2026/7/10)

調査レポート 日欧関係強化の戦略的意義(2026/5/15)

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